みうみのーと

25歳が色んなことを考えるチラシの裏です

SNSという棺桶《SNSデトックスに至るまで》

雑音から離れることを決断した。

SNSという棺桶に化け物と化した私を入れた。

棺桶の中は綺麗なもので溢れかえっている。

 

 

 SNSとわたし

私にとってSNSとは切っても切れないようなもので、一種の現実逃避のためのライフラインとしてなくてはならないものだった。

Twitterを始めたのはいつの頃だったか覚えていない。

2011年、高校生からのめりこんだのはしっかりと覚えている。

LADY GAGAのCMに非常に感化された私は当時裕福だった親に頼み

まだiPhoneさえも普及していないころにau社のIS05を手に入れてTwitterに興じていた。

周りの友人でそこまでTwitterをしている人もいなかったし、

ハンドルネームを利用して、画面を開けば見知らぬ友人がいることは非常に楽しかったことを覚えている。

 

それから時は流れて大学生となった私は、LINEを主なコミュニケーションツールとして利用し、FacebookInstagramを主流にリアルを切り取った投稿を続けていた。

ハンドルネームを利用したSNSからは離れて、Twitterも見知った友人のみをフォローした、現実世界の媒介として機能するツールとなった。

特にいろいろな活動をしていた私はFacebookに切り取り

きらきらとした生活の中で、友人達に囲まれ充実した私はInstagramに切り取った

友人のつぶやきに答え、面白い(と思っていた)発言や生活の残りはTwitterへと切り取った

承認欲求に塗れていることは否定しない。今現在こうしてこのコンテストに投稿していることさえも、私が第三者の匿名の私として発言しているわけであるし否定できない。

その当時は、今よりもずっとひどいものだった。友人の数やいいねの数に固執していたために、いいねを買ったりもした。他人から賞賛される私を狙って生活していた。

 

ここで言及しておくと、インスタ映えのために購入した食べ物は完食していたし、インスタ映えやいいねを探すために外出するようになったので、インスタグラマー等々インフルエンサーを否定するわけでは決してない。

 

SNSという病

ただ次第に疲労を感じていたのも事実であった。

全く知らない同級生から、豪勢な人間と思われることもしばしばあったし、多少の反感もあったのではないかと思う。

だからこそ発信することに十分注意して書き込んでいたし、

今のように私そのものを発信してはいなかった。私との乖離が起きて、

私は非常に明るくアクティブな人間と定義付けをされた。

その定義を失わないようにと。、常に人と比べてしまう私がいたのも確かであった。

 

最初の私は、SNSにつながりを、寂しさを埋めるものを探していたはずだった。Twitterを始めた頃もLINEを始めた頃もFacebookInstagramも、その閲覧により寂しさを求めていた。

次第にその寂しさは甚大なる承認欲求の怪物となり、私を数字で測るものとなっていく。友人の生活を羨んだ。自分は満たされているのに、満たされないと悩んだ。

 

聞いて。見て、私を羨んで、その評価をして欲しい。いいねを押して。私を聞いて。

そう嘯く怪物がいた。

 

 

自分の今まで作り上げた『自分』の虚構さが馬鹿らしく思える。

明るくなんでもできるように仕立て上げた自分、キラキラした生活を演じていること、情報に溢れたタイムライン、取捨選択をしながら何かに張り合うように、すがるように投稿を繰り返す。

 

私を見て、評価して。

 

そんな生活を続けていればいるほど、誰かに妬まれることが多くなった。

次第に恐怖心とその虚構への馬鹿らしさから、意図的に自分の生活を切り取らなくなった。

投稿しなくなると今度は、私の所在を心配する声もあった。ただその声は蓋を開けてみると憶測のものが多く、その心配により各々らの承認欲求を埋めるような…はっきり言うと第三者により本気で傷つくような噂をされていることもあった。私の心配ではない。心配している自分達を誇張するような声が怖くて仕方なかった。

 

孤独を感じた。

 

寂しさをSNSで埋めようと思っていた高校生から25歳にいたる私が結局手に入れたものは、本来の自分ではない虚構の自分と、永遠に埋まらない、さらに寂しくなった私だった。

 

SNSデトックス

私はSNSデトックスを決断した。もう人と比べないために。寂しさで自分を見失わないように。私の作り上げるものが誰かのためではなく、自分と大切なひとたちのものだけであるように願って。

 

特に仲の良い理解ある友人にはSNSを消す前に自分のメールアドレスを教え、今一度最後にSNSをじっくり眺めた。

人からいい人生を送っているように見られたかった笑顔の私が映る。なんのためのシェアだったのか、自分にはその反応を求めるだけの寂しい虚無的なコンテンツだった。

SNSはさながら棺桶のようだった。笑顔の写真やポジティブな文章が並ぶ。明るい、リーダーシップのある、いい人である私が並ぶ。

自分の人生を切り取って置いていてもそこには他人の評価が付いていた。自分のベストは自分しかわからないのだ。自分の輝かしい思い出がただ空っぽのまま並ぶだけ。

 

SNSを全消去する(アカウントごと消す)に至るまで少しの勇気が必要だったが、消去ボタンを押した後は心が軽くなったように感じた。

 

自分の人生は見世物ではない。まして他人に美しく見られるための努力で虚無感や疲れを感じていたならば本来の使用法ではないのだ。

自分の虚構に栄光を語る必要などない。

 

承認欲求の化け物だった私はなくなったのだ。その美しい棺桶とともにこの世界の一端からいとも簡単に、人差し指一つで消すことができたのだ。

 

SNSという棺桶に自分を送り出して

 

これからは自分の好きなものだけを取り入れて歩む。他人のものさしで自分を比較しないし、自分もまた、自分のものさしで他人を比較しないようにする。

 

自分は自分であると、その感性が物語る。

本当に大事な人間はそんなこと一つでいなくなったりはしないし、寂しさも感じることがなくなったのも大きな発見だった。

 

自分を作り上げるのは自分の感性だけであると私は思う。思っているよりも空を綺麗に感じることができる。生活の音が心地よく感じ、丁寧に生きることができる。

寂しければ本を読むといい。漫画、映画、音楽でもいい。睡眠でもいい。自分を広げることができる。自分の成長に反比例して、自分の寂しさが減っていくことが感じられる、わたしはそう確信している。

 

虚構で固められた美しい棺桶に自分は居ないのだ。何時の時も、私が得るもの、理解するもの、創るものは美しい。私のためのガラスケースをつくるべきなのだ。

 

これからは、私自身が、私の基準で歩んで行く。

余裕の生まれた世界で、私自身が私を造りあげてゆく。