みうみのーと

25歳が色んなことを考えるチラシの裏です

Produce 101 Japan で次世代のアイドルを見つける

最近、ある番組にハマっている。

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PRODUCE 101 JAPAN OFFICIAL SITE

 

Produce 101 Japanである。

 

【初公開】 PRODUCE 101 JAPAN 『ツカメ~It's Coming~』 パフォーマンス映像 - YouTube

タイトル曲のツカメを見た時は

言われもない衝撃をうけた。

 

我々は国民プロデューサーと呼ばれ、

この101人の中から11人を選び、毎日投票し、彼らをデビューさせる権利を持つ。

 

まだ1話しかして居ないものの、

彼らの努力や思いに、1話から涙が止まらない。

 

https://youtu.be/loGGYyvpa2Y

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特に私はこの彼、安藤優くんに心を奪われた。

笑うと見せる白い歯や、どこか抜けてそうなところ、清潔感、ともにとても素敵だと思う。

 

https://youtu.be/PJuSW4GftaI

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11任に選ばれると、我々にチャーハンを作ってくれるらしい笑 

未だ歌声は聴けてはいないが、ツカメのダンス動画で、4分間笑顔を絶やさず踊り続け、

表情も表現力もあるのはとても素晴らしいのでは無いだろうか。後半、弾けるような笑顔を見せてくれる。

 

https://youtu.be/orXbGwMyDGw

 

番組内でも何度かスポットを抜かれたり、これからの成長が期待されてるのではないだろうか

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一時の草彅剛さんや、横浜流星くんに似ていると書かれていたが、確かに横浜流星くんに似ている。

 

今現在Gyaoで視聴可能だ。

 

 

どうかこの記事を読んだ方は、彼の魅力に気づいて、彼に投票して貰えれば幸いである。

#produce101 #produce101Japan #GYAO #無料 #韓流 #アイドル #男性アイドル #男性グループ #韓流アイドル

偏頭痛

世間は梅雨入りしたのだろうか。

ろくにテレビも見ない毎日が続いているので、自分の偏頭痛の頻度で今梅雨なのかどうか判別している。

この偏頭痛は割と正確なので馬鹿にならない。

 

とりあえず努力するというスキルを覚えた私は、とにかくがむしゃらに毎日を生きている、と言いたい。

今の生き方が果たして正解なのか、自分のパートナーにとっても正解なのかわからない。

その正解もわからないので泣きながら頑張るという矛盾がおきる。

 

彼にとっての私は常にキラキラした私でいなければならないということなのか。

誇張された私を切り取られる恐怖心がうごめく。ただ、おまえは頑張っている、そう言われたいがために泣きながらでも前に進む。

 

私が泣いても彼にとったら梅雨に雨が降るのと同じような感覚なのかもしれない。

晴れ間を祈るのは私だけではないのかもしれない。彼にとったら私は雨の日の偏頭痛のような、そんなものだったらどうしようと、また画面の中に思いをぶつける。

 

消えてしまいたいのだ。

簡単に梅雨を開けさせられるものならば開けさせたいのだ。努力しても梅雨はやってくる。偏頭痛と戦う。

 

それでも前に進む。そんな私を見て欲しいと願うのは、甚だ迷惑なのだろうか。

メンヘラ懺悔室(かわいそう抜きでもかわいいから)

メンヘラという言葉で定義される人種だ。私は。

この記事はメンヘラや病み、精神疾患を患われている方を叩くものではなく

自分自身への懺悔なのでその方向でお願いしたい。

自分への懺悔なので見出しや目次等もつけない散文の覚書として。

 

で、メンヘラなのだ私は。ネタでもあり真実でもある。

俗に言う地雷女であり、何通ものメッセージや電話をかける。

前髪を切りそろえ、サンリオキャラクターやぬいぐるみに囲まれて生活している。

鉄板である元カノのSNSを調べ上げては病み、発狂し(誰も得しない。)

女友達の多い…もう本当にできたの恋人周辺をにらみ生きて

連絡不精な恋人にiPhoneを探す機能で所在を調べたりもした。

今現在の恋人にも何回も度重なる迷惑をかけた。

忠告しておくが、恋人は至極誠実な人で、人望もある、

浮気なんて心配も一切ない、太陽の化身のような人だ(言い過ぎかもしれない)

 

ここだけの話、恋人の前で、壁に私が頭を打ち付け脳震盪を起こしたあのマンションの恋人の旧住まいに修繕費がからなかったかどうか、聞けていない。

(おそらく凹み等ない上に話題にも上がらなかったので大丈夫と思っている、そんな問題ではないけれど。)

 

今まで付き合った人も特にうまくいった試しもない。

ただ、今の恋人が一番しっかりと私を見ていたのは確かで、なんども不安がり発狂する私を(これは自分への皮肉である)いつもなだめ、心配を否定してくれていた。

私はというとなぜメンヘラになったのかいまいちわかっていない。

お得意の分析が自分自身には効かないのだ。かつての恩師からは幼少期に自分の部屋がなく(お受験家庭だった)、過干渉だったからではないか、だと言われてみたりもするが…自分はそこまで大変な家庭でもないしむしろ幸せに育てられてきたはずである。

多少毒親の片鱗を見せていたか?と聞かれると否定はできないのだが。

まあその辺のモンスターペアレントではある。

 

話は戻り、この現在の恋人、私がずっと憧れていた人であるし、かくいう人気者のため、私から彼に対する承認欲求といえばものすごいものであった。

そのたびに発狂し彼になだめてもらい愛されていると錯覚する毎日を過ごしていた。

極度のかまってちゃんだったし、極度のメンヘラだった。

 

そして彼が私に別れたいと先日わたしに申告したのである。

案の定わたしは発狂し夜中から出勤前までずっと泣きの説得を繰り返した。

終盤心のどこかで彼をここまでして引き止める必要があるのか、自分から彼への執着と依存心ではないのかバカバカしくなりもしたが、

それでもやはりどこかで、馬鹿なことで笑いあった初期の自分たちが忘れられずに、どうしてももう一度チャンスが欲しいと彼に説得した。

彼は同じことの繰り返しと言っていたけれども、本当にできすぎた人間なので(彼の会社に昇進をお願いしたいくらいだ、いや、馬鹿か私は。)、最後のチャンスを私という人間に与えてくれた。

実際のところこの辺りの話もSNSデトックス、断捨離に繋がる。ここは笑い話だ。

 

そして今一度、彼が私と恋人の関係であることを、最後のチャンスをくれたのはいいものの、実際問題自分を見つめ返す機会は必要だと感じた。

お得意の自己分析を泣きながら繰り広げた。依存心と自分へのバカバカしさを捨てたいと思いながらも大森靖子を聞きながら自己分析をした。相変わらず馬鹿である。

 

自分で自分のことを客観的に見ることはできない。

おそらく、この文章を読んでくれている人がいるなら 「みうみの彼氏逃げたほうがいいよ。こいつは治らないよ」と思われていても仕方がないくらい自己中心的な考えしかできない。

それでも大森靖子に突き動かされながら自己分析を繰り広げて数日、本質的なことが全く理解できていない自分がいたことにさらにバカバカしくなった。

私の恋人が浮気をしたことなんて1度もなかったし、風俗行くくらいなら友達といい酒を飲みたいような人間で、あれだけ嫉妬した元カノも「みうみちゃんを悲しませたくない」との理由でしっかりと防衛線をはってくれているのに(恋人と他社であれ同じ業界なのでメンヘラとしては非常に不安なのだ)、一切私は、彼のことを信じようとせず自分の支配下に置こうとしたのである。

…これは本当に自分でも馬鹿すぎるが、恋人が私にしてくれることを否定したり拒否したりもした。理由は「私のことをわかってくれていない」である。

 

だんだんと彼が天邪鬼になったのもそれはそうだろうと思う。自分を信用せず、自分が与えたもの(言い方悪いね、ごめんね恋人くん。そもそもネタにしてごめんね。)にいちゃもんをつけられたら誰しも天邪鬼というよりは…そう、見限るはずである。

 

これは自分自身への忠告であり宣戦布告だ。

もう次はない。彼が別れを告げるなんて相当な状況だ。しかも今まで彼は何人かをふってきているのに私と一緒にいてくれるのは最後のチャンスであり、みうみみうみだからなのだ。

 

大森靖子プロデュースのアイドルZOCの歌詞にも出てきた

「かわいそう抜きでもかわいいし」

そう、その通りで、かわいそう抜きでかわいい自分を恋人に見せろ、また片思いの状態だと思って絶対に愛で愛をくるんで恋人を信じろこのたわけ。

病んだり発狂しそうな時は、大好きなユーチューバーをみて分散させろ。恋人くんは絶対に浮気しないから。自分もやることをこなして信じてデートの時には全力で甘えろこの馬鹿が。

そんなこと言いながら初日から感傷に浸って泣いても絶対に恋人には見せない。だって恋人は仕事で多忙だったし、相も変わらず私に、不安にならないように行き先を教えて、新しい私のぬいぐるみに命名しようとし、秋に開催されるアートビエンナーレに誘ってくれたではないか。お前の寿命は秋までは伸びている。

 

そうと決まればメンヘラはメンヘラなりに可愛く生きなければならない。

今日もおはようにたっぷりのハートマークを。

おやすみに心からのねぎらいを。

メンヘラは辞めれない。恋人のことは大好きだし、依存といわれても致し方ないが

自分のしたいことにお互い賞賛し切磋琢磨し合える人間である(あった)ことは間違いがないので、永遠なんてないと覚悟しながらただ彼を信じるだけである。

 

女友達の勝手な憶測とか女友達のどうでもいい情報も気にしないこと!

馬鹿みたいな嘘を吹聴してくるやつはそのままSNS断捨離しよう。

そんな子達よりも私は本当にかわいいよ。なにより

恋人に一番あいたくて、一番応援していて、一番大好きで入れるのは

自分だけなのだから。

 

さいごに、自分は自分が悪いことを一番わかっています、周囲の憶測も要らないしアドバイスもこのみうみの記事に関してはないと思っています。

なぜならここにはかけないレベルのより個人の問題が加わる、いろいろなバックグラウンドがあった上での決定、結果のため、この記事はただ一介のメンヘラが若干の改心を志した というネタになれば幸いです。

 

またメンヘラの発狂を起こしたら書きます。そして恋人とは別れることを誓います。

全世界のメンヘラに幸せがあらんことを。

 

今回のBGMはこちら


ZOC「family name」Music video

能動的な人間として

もはや愚痴のような内容で書いていて投げやりな気分になったのでいつになく散文であることを認めて投稿をする。ここは自由空間なのだから

 

学生時代に頑張ったことはなにか、就職活動をしていた頃にテンプレートのように聞かれていた。当時の私は、自分自身の周りよりかは「意識高い系」の活動をしていた自負はあったので、何よりもテンプレートのように語ることができたのを覚えている。

 

実際問題なんのためにやっていたのかと言われると自身の行動(慈善活動や物書きをするような団体をまとめていた。)が慈善のように思えていたので周りの人間に言ったことはあまりなかった。

友人の「就活のためにしているのか」という言葉に酷く傷つきもしたし、否めない自分もあった。

 

能動的な学生の少なさに時折落胆することがある。

自分が社会の一旦を担うのみで何かを起こそうというイノベーションをしない場合が多いのではないかと懸念することがある。

また、能動的な人間ほど目につき嫌われやすいのも確かである。団体から外れて動くことで叩かれることも多い。ただの意見が抑圧的なものによって抑えられることだって大いにあった。

 

またその上で私は直々にジェンダーバイアスでものを見られることも多いにあった。親からもそういう教育を受けてきた(女の子は裁縫とピアノ。昇進などは必要ない、というような)ので、慣れてはいたが、未だに偏って見られることが多いのかと落胆することもあった。

 

外見で判断される。性で判断される。そういうこともあったのでしばしば口を閉じる場面もあったのも確かだった。

 

でも実際問題、そんなことばかりではなかった。自分が踏み出せば踏み出すほど助けてくれる人が増え、認められるケースも増えてきたと感じる。また、学生だったために多少の無謀なアポイントメントもかなったのだ。いろいろ学んだことは多い。

 

こうしてウェブ上に意見を書いても見られることなんてあまり期待もしていないし、自分自身の覚書がおおいのだけれども、

自分が今後できることはもっと能動的な学生を増やせられることができればいいと思っている。それはすでに能動的な学生がさらに伸びるためのものではなく、どうすればいいかわからないが一歩踏み出したい人たちのアドバイスができればいいと思っている。

 

1から作ることはとても不安なこともおおく弾糾されることもしばしばあるが、新しい道を作り信じてくれる、物事の本質を見る人間は自分自身がストーリーテラーとならずとも後からいてくれることがある。

それはそばで見ている恋人ではなく友人でもない第三者からの評価のこともあるが、自分というバイアスのない中で評価されることは非常にありがたく感動すら覚える。

 

何事にも始まりが重要であり、イノベーションはイミテーションから始まるということばもあるくらいでるから、近しい目標をつくることもいいと思う。模倣から始まることもかまわない。

 

兎にも角にも世の中には埋もれている才能が多すぎる。自分の特性というものを模索しチャレンジすることは自分にしかできない。

自尊心の海に溺れていく

人間誰しもが認められたいと嘯く。

最近の若いもの、がどこから定義される年齢かはわからないけれど

世の中は程度は様々ではあるが承認欲求に溢れている。

 

その承認欲求の根源とは何だったのか、途端に馬鹿らしいものになる。

自分自身がやるせない人間で仕方なく思えてきたわけで

すべてのSNSを削除することに決めた。

 

ともかく少し前からだんだんと自分が生きやすくなりたいがために

少しずつミュート機能を利用するなどして自分自身を整理してきた。

だんだんと数字にとらわれていた自分が馬鹿らしく思える。

信頼できる人間も、信頼して欲しい人間も、双方が同じ思いならば

必ずいなくなりはしないと私はそう思っている。

というか、今までがそうだったので、批判があれど致し方なく

とりあえず私は人に固執し過ぎていたと感じている。

双方互いに固執せず 理解してくれるであろう人にメッセージを残した

そして身辺を整理するに至った。

 

私だけの世界。好きなものだけをピックアップして

誰のために演じている世界なのか それは観客のためではない

金を払って観劇している人間なんて人生にはいない

好奇心だけの展示物と見栄だけの収集家にはなりたくない。

人の模倣から現れる承認欲求などなんのためのものなのか。

私だけの世界とは私の個性が光る場所。誰にも邪魔も模倣もされたくない。

羨む人間もねたむ人間も模倣する人間も昔はいなかったのだ

それが私を邪魔したのはほんの数年来。それはなぜなのか

承認欲求が海のように流れていく時代で 

溺れまいと必死に自己主張を繰り返した結果

模倣され 妬まれ 私というコンテンツが確立し 消費され 比較され

自分自身を情報社会のコンテンツとして置いてしまい

自分自身もその中で沈むまいと生きてきたから

自分だけの大切なものがだんだんと純粋なものではなくなり

自分自身の発言も行動もだんだんとバカバカしく思えてくる

重々に考えたものが 模倣され 消費され 比較され 妬まれる

自分の意思とは反対に消費されていく

参考にしたいと言われて貸したデザイン案の中身が

そっくりそのままコピーされて作品と為され 賞賛されていたときの苦しみ

教師に言ったとき 私が貸して 見せたのが悪いといわれた

確かに使用していなかったデザイン案だったが とても悲しくやるせないものを感じた

私は誰かのためにコンテンツとなったわけではないのだ

承認欲求の海に揉まれ なにかとその数で私という人生が計られることに

もう十分だと

私は演者ではない 観客などいない

私は展示品ではない 周りの人間は査定官ではない

 

もう一度私自身の宝物を美しく保つために

私は唯一の人間となる 海から離れ 美しいものだけを見て生きていく

 

 余談ではあるが SNSに疲れたら いいねの数につかれたら

一歩引いてこの流行りの本を読むといいと思う。

実質インフルエンサーの彼がSNSに対してどう感じているのか気になっていたので

読了した。読み応えというよりかは、

なにかと勢いのある文体なので少しずつ読むといい。

自分の好きなものだけ収集する人生がどれだけ美しいかわかると思う。

ウチら棺桶まで永遠のランウェイ

ウチら棺桶まで永遠のランウェイ

 

 

【写真】碧の天国 【ネモフィラ】

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青の中に混ざる赤い花を映らないようにした。

人々は赤いそのポピーのような花を

美しいコントラストのためにファインダーへ切り取る。

もとよりあの赤い花はナガミヒナゲシと呼ばれ

外来種で繁殖力の強いものとして危険視する人もいる。抜いたとて種よりまた広がるので

早急に対処しなければならない。

ネモフィラが負けてしまうのではと私は懸念した。特に詳しい訳ではなくただの雑学として知っていただけではあるので、心配しなくても良いのかもしれないけれど。

 

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青に混ざる赤い花を個性と捉えるのか

異物と捉えるのか 何が正しいか分からなかった

それは自分の知識不足でもあり

自分の考えそもそもに違和感を持ち続けているから 綺麗な天のような青に混ざる赤い花を美しいとおもう心が美しいのか

この私の懸念が花のためを思っている美談なのか 大多数にまじれない自分に違和感を感じた。

 

花を見て美しいと思えど

花について知ろうとしているのか

花をファインダーに納めて 時間を止め

思い出と共に美しいままにして

その先を考えてみることが多少 自分自身が鬱陶しく感じた。

 

百合の匂いがかすかに残る

ここは元が百合園だったのだと分かる

咲き誇る百合の匂いに意識が眩んだことを憶えている

咲き誇る百合の行方も気になった

あの日の思い出を思い出すとは思わず

上塗りされた碧でまた思い出を塗りつぶす

赤の斑点が自分の雑念のように思えた

SNSという棺桶《SNSデトックスに至るまで》

雑音から離れることを決断した。

SNSという棺桶に化け物と化した私を入れた。

棺桶の中は綺麗なもので溢れかえっている。

 

 

 SNSとわたし

私にとってSNSとは切っても切れないようなもので、一種の現実逃避のためのライフラインとしてなくてはならないものだった。

Twitterを始めたのはいつの頃だったか覚えていない。

2011年、高校生からのめりこんだのはしっかりと覚えている。

LADY GAGAのCMに非常に感化された私は当時裕福だった親に頼み

まだiPhoneさえも普及していないころにau社のIS05を手に入れてTwitterに興じていた。

周りの友人でそこまでTwitterをしている人もいなかったし、

ハンドルネームを利用して、画面を開けば見知らぬ友人がいることは非常に楽しかったことを覚えている。

 

それから時は流れて大学生となった私は、LINEを主なコミュニケーションツールとして利用し、FacebookInstagramを主流にリアルを切り取った投稿を続けていた。

ハンドルネームを利用したSNSからは離れて、Twitterも見知った友人のみをフォローした、現実世界の媒介として機能するツールとなった。

特にいろいろな活動をしていた私はFacebookに切り取り

きらきらとした生活の中で、友人達に囲まれ充実した私はInstagramに切り取った

友人のつぶやきに答え、面白い(と思っていた)発言や生活の残りはTwitterへと切り取った

承認欲求に塗れていることは否定しない。今現在こうしてこのコンテストに投稿していることさえも、私が第三者の匿名の私として発言しているわけであるし否定できない。

その当時は、今よりもずっとひどいものだった。友人の数やいいねの数に固執していたために、いいねを買ったりもした。他人から賞賛される私を狙って生活していた。

 

ここで言及しておくと、インスタ映えのために購入した食べ物は完食していたし、インスタ映えやいいねを探すために外出するようになったので、インスタグラマー等々インフルエンサーを否定するわけでは決してない。

 

SNSという病

ただ次第に疲労を感じていたのも事実であった。

全く知らない同級生から、豪勢な人間と思われることもしばしばあったし、多少の反感もあったのではないかと思う。

だからこそ発信することに十分注意して書き込んでいたし、

今のように私そのものを発信してはいなかった。私との乖離が起きて、

私は非常に明るくアクティブな人間と定義付けをされた。

その定義を失わないようにと。、常に人と比べてしまう私がいたのも確かであった。

 

最初の私は、SNSにつながりを、寂しさを埋めるものを探していたはずだった。Twitterを始めた頃もLINEを始めた頃もFacebookInstagramも、その閲覧により寂しさを求めていた。

次第にその寂しさは甚大なる承認欲求の怪物となり、私を数字で測るものとなっていく。友人の生活を羨んだ。自分は満たされているのに、満たされないと悩んだ。

 

聞いて。見て、私を羨んで、その評価をして欲しい。いいねを押して。私を聞いて。

そう嘯く怪物がいた。

 

 

自分の今まで作り上げた『自分』の虚構さが馬鹿らしく思える。

明るくなんでもできるように仕立て上げた自分、キラキラした生活を演じていること、情報に溢れたタイムライン、取捨選択をしながら何かに張り合うように、すがるように投稿を繰り返す。

 

私を見て、評価して。

 

そんな生活を続けていればいるほど、誰かに妬まれることが多くなった。

次第に恐怖心とその虚構への馬鹿らしさから、意図的に自分の生活を切り取らなくなった。

投稿しなくなると今度は、私の所在を心配する声もあった。ただその声は蓋を開けてみると憶測のものが多く、その心配により各々らの承認欲求を埋めるような…はっきり言うと第三者により本気で傷つくような噂をされていることもあった。私の心配ではない。心配している自分達を誇張するような声が怖くて仕方なかった。

 

孤独を感じた。

 

寂しさをSNSで埋めようと思っていた高校生から25歳にいたる私が結局手に入れたものは、本来の自分ではない虚構の自分と、永遠に埋まらない、さらに寂しくなった私だった。

 

SNSデトックス

私はSNSデトックスを決断した。もう人と比べないために。寂しさで自分を見失わないように。私の作り上げるものが誰かのためではなく、自分と大切なひとたちのものだけであるように願って。

 

特に仲の良い理解ある友人にはSNSを消す前に自分のメールアドレスを教え、今一度最後にSNSをじっくり眺めた。

人からいい人生を送っているように見られたかった笑顔の私が映る。なんのためのシェアだったのか、自分にはその反応を求めるだけの寂しい虚無的なコンテンツだった。

SNSはさながら棺桶のようだった。笑顔の写真やポジティブな文章が並ぶ。明るい、リーダーシップのある、いい人である私が並ぶ。

自分の人生を切り取って置いていてもそこには他人の評価が付いていた。自分のベストは自分しかわからないのだ。自分の輝かしい思い出がただ空っぽのまま並ぶだけ。

 

SNSを全消去する(アカウントごと消す)に至るまで少しの勇気が必要だったが、消去ボタンを押した後は心が軽くなったように感じた。

 

自分の人生は見世物ではない。まして他人に美しく見られるための努力で虚無感や疲れを感じていたならば本来の使用法ではないのだ。

自分の虚構に栄光を語る必要などない。

 

承認欲求の化け物だった私はなくなったのだ。その美しい棺桶とともにこの世界の一端からいとも簡単に、人差し指一つで消すことができたのだ。

 

SNSという棺桶に自分を送り出して

 

これからは自分の好きなものだけを取り入れて歩む。他人のものさしで自分を比較しないし、自分もまた、自分のものさしで他人を比較しないようにする。

 

自分は自分であると、その感性が物語る。

本当に大事な人間はそんなこと一つでいなくなったりはしないし、寂しさも感じることがなくなったのも大きな発見だった。

 

自分を作り上げるのは自分の感性だけであると私は思う。思っているよりも空を綺麗に感じることができる。生活の音が心地よく感じ、丁寧に生きることができる。

寂しければ本を読むといい。漫画、映画、音楽でもいい。睡眠でもいい。自分を広げることができる。自分の成長に反比例して、自分の寂しさが減っていくことが感じられる、わたしはそう確信している。

 

虚構で固められた美しい棺桶に自分は居ないのだ。何時の時も、私が得るもの、理解するもの、創るものは美しい。私のためのガラスケースをつくるべきなのだ。

 

これからは、私自身が、私の基準で歩んで行く。

余裕の生まれた世界で、私自身が私を造りあげてゆく。